ささがねの ゆらら琴のね

~ いにしへの和歌招く響き ~

羽衣伝説から思い起こす、郷土伝承のありようについて


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なんだか唐突に、羽衣天女が気になってしかたなくなったので、ついでに思いつくことを書いてみます。

 

私は静岡県出身で、富士山のお膝の上で生まれ育ち、富士山本宮浅間大社の御神地、風を祭る湧水の地を産土としています。f:id:shihina_takisato:20211012093235j:image

現代の感覚では、東海道線より奥の片田舎なのですが、かつては富士山信仰のお膝元ということもあり、諏訪の行者や商人などが行き来し、市が栄え、豊かな富士のめぐみと共に内外の珍しいもので溢れ、賑やかに開かれた門前町でした。

そのため、地元の土着の民話や伝承・信仰などの他に、旅人が落としていったような文化や伝え語りが、形を変えてひっそりと残っていて面白いのですが…

 

かつてはあったはずの、富士山下のこの地域特有のしきたりや風習や伝承も、いつしかどこかを真似したような、ある意味ありふれたものに変わり、伝え語りなど生まれ育った人でさえ一笑に伏して忘れ果てているくらい、顧みられていません。

どこでもあるように御一新後の趨勢や、特にこの地では時代によりさまざまな宗教も入り乱れ、民俗的な貴重な風習も、多くは忘れ去られ消えています。父の世代がかろうじて、父の祖父などから聞いた話として、局地的に知る程度でした。

おかげで、今や焼きそばしか名物がないみたいになってて、もったいない限り。(そりゃ焼きそばも美味しいけれど)

 

ここ数十年、町おこし運動などで掘り起こされた、比較的有名な伝承ものとしては、

富士地区に伝わるかぐや姫伝説、

富士川上流の集落に残る平維盛の墓と平家落人伝説、

織田信長の、本能寺から持ち出されて密かに祀られた首塚、なんてのがあったりして。

史書にはないものの、武家の祖である源頼朝を慕い、織田信長豊臣秀吉聖地巡礼に訪れたという話も残っています。

…これら、誰も信じていないけれど。

でも、霊山富士の麓であり、富士川の合戦、富士の巻狩りなどの有名な事績があるのだから、必ずしも根拠のない嘘八百と受け流すのもどうかと思うんですよね。

 

私は真実かどうかよりも、ウソだろうが迷信だろうが、その土地に、そういう話が伝えられていることそのものに、なんらかの意義があると思っています。

 

私の研究としては、畿内方面が専門ですけれど、史跡調査の観点と相まって、故郷を離れてからのほうが、むしろ興味深くなった気がします。

今は亡き父が特に詳しくて、郷土史調査資料をたくさん所蔵していたはずなのですが…父は予期せぬ急死をしてしまったために、気がついたら母が父のものを全部捨ててしまっており…ガリ版刷りみたいな、古い、二度と手に入らない貴重なものもあったのに…とても残念。

 

三保の松原・羽衣の松

さて、静岡県に名所旧跡は数ありますが、私が能楽に興味を持ち習うに至ったきっかけは、やはり羽衣伝説。三保の松原です。


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とはいえ、実は子供の頃には、一度も三保の松原へ行ったことはありません。

学校行事でも、焼津港や登呂遺跡、久能山東照宮日本平東海大学の公開施設などには行ったものの、羽衣は「お話」としてしか、聞いたことはありませんでした。

おとぎ話としても、子供向けだと『かぐや姫』と混ざっていて、おじいさんとおばあさんが帰れなくなった天女を娘のように育てて、天女は機を織って恩返しを…なんて、『鶴の恩返し』まで混ぜこぜ。

 

謡曲『羽衣』も正確な物語としては、大学で能楽サークルに入り、実際に稽古して理解したようなもの。

蛇足ながら、概略を物語りますと…

 

〜三保の浦の白龍という漁夫が、ある春の日に、浦の松原に花が降り良い薫りと妙音が漂う、この世ならぬ有様となっていることに驚き、見れば松に美しい衣がかかっている。

これは珍しいと衣をとって帰ろうとすると、美しい女があらわれ、

「それは天人の羽衣とて、たやすく人間に与ふべきものにあらず」「悲しやな羽衣なくては飛行の道も絶え、天上に帰らんことも叶ふまじ」

天に帰れないから返してほしいと訴えます。でも白龍は、これはたくさんの人に見せたい国の宝になる、天になんて帰らなくたって下界だって住めば都だよ、なんて誘惑しつつ返さない。

そうこうしているうちに、天女には早くも天人五衰の相が表れはじめ、しきりに天界を恋しがって嘆く…そのさまを見て、さすがに白龍も哀れになり、名にし負う天人の舞を見せてくれるなら返してもいいと提案します。

天女は喜び、羽衣がないと舞えないから先に返してと言いますが、白龍は、返したらそのまま帰ってしまうだろうと疑う。ここで名言、

「いや疑ひは人間にあり。天に偽りなきものを」

ウソや騙すといったことは人間だからであって、疑う心も天界にはない…白龍は恥じ入って、すぐに羽衣を返します。

こうして天女は舞い、それが“東遊(あずまあそび)の駿河舞”として伝承された〜

 

「七宝充満の宝を降らし 国土にこれを施し給ふ」

 

 

ちなみに『吉野天人』という謡曲では、天女が“五節の舞”を伝えたとされており、天河には天武天皇が琴を弾き天女が舞ったとの話が伝わっていて、

これを起源とし、現代に至るまで、宮中では天皇即位の際に、舞姫による五節の舞が舞われる慣例になっています。

高貴な舞楽は、天界からもたらされた有難いものとされたのですね。

 

羽衣を隠され帰れなくなった天女が、機織りや酒造りなどの天のわざをなし、富貴を授ける…というような伝承は、古くから伝わります。

三保の松原以外で私が惹かれたのは、奥琵琶の余呉湖の天女伝説などが有名。

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他のパターンでは、羽衣を隠した男の妻となり子をなした後、羽衣を見つけて天に帰ったり、富貴となったら用無しと捨てられて流浪するなんてひどい話もある。

謡曲では天女はその場で羽衣を返してもらい、妻になってはいませんが、御穂神社には、天女が天に帰る名残として残したと伝わる、羽衣の切れ端が御神宝として残されているそうです。

 

他所にも、天女がおりてきて珍しいことをするのを、里人が垣間見、残していったものを奉ったのを起源にするお社やお寺や塚があるとか、

羽衣以外でも、天女・仙女・神女の話は、パターンは違えど各所にあって、興味深いです。

天からおりてきた人でなく、たとえば物忌や斎女にまつわる伝承から、山女・山姥や、奄美や鹿児島方面に伝わる神女などが、もとは人の娘だったものが人を超えた領域になり、畏れや敬いの対象になる民俗風習が、天女伝説に転化したものもあるようですし、

いわゆる隠れ里に住む異人の女を、風体やふるまいがあやしく異なるために、人ならぬ聖なるものと認識した伝説もあるのかと。

 

さて、能楽を習い始めたばかりの頃、帰省した際に、父に頼んで、初めて三保の松原に連れて行ってもらったのですが、

当時、能楽師になった先輩から、実際に行ってみてガッカリした名勝だったと聞いていました。

羽衣の松そのものはすでに枯れており、三保の松原も松食い虫などの被害で見るカゲもなく、

後継の松を育てている状態だったので、見る価値がない、曇って富士山が見えていなければ、ただの何もない海岸だと言われたりして。

 

でも当時の私が実際に行って覚えているのは…たしかに松原は今風に言えばショボかったけれど、行ったのが初春の頃だったと思うので、富士山はよく見えていたこと。

もともと富士山麓育ちだし、富士地区の千本松原を見慣れていたので、富士山が見えるかどうかや、松枯れで想像と違っていても、ガッカリはしませんでした。

それより、駿河湾越しに富士山を仰いだことがなかったので、その風景はやはり絵のように素晴らしく思えました。ちょうど故郷から見る姿と同じ富士山の手前に、松原と海、そして愛鷹山がある感じ。

 

謡曲『羽衣』では、舞い終えた天女は、

愛鷹山や 富士の高嶺 かすかになりて 天つみそらの 霞にまぎれて失せにけり〜

と、天に帰っていくのですが、

自分が見慣れている故郷からは、愛鷹山は東方面の遥か彼方にある印象だったので、

天女さんは駿河湾から愛鷹山まで、ぐる〜りと大回りして、富士の高嶺から天に上がるなんて、すごい迂回しながらの出血大サービスな飛行だったんだな〜と、ずっと思っていたのだけれど、

三保の松原から眺めると、駿河湾愛鷹山〜富士山は、そのまま天界へ向け飛んでいける景観になっているんだと、初めて気がつき、そのことに感動しました。

『羽衣』の謡曲は、実際にここに来て、この景色を眺めたからこそ、作られたのだろうなと、イメージ的に臨場感を覚えました。

 

ちなみに、『羽衣』の作者は未詳ですが、一般に世阿弥と言われています。

その世阿弥の父である、観世流の祖・観阿弥は、巡業中、駿河国浅間神社で不慮の死を遂げています。

これが、現代の静岡市にある浅間神社なのか、本宮である富士宮市浅間大社かは、私が習った研究史では確定していないそうですが、静岡の浅間神社三保の松原はさほど離れていませんし、

当時の芸能集団が、巡業しつつ各地の歌枕や名勝を巡り、伝承や伝説を見聞きし、土地誉めの神事や演目の題材として取り入れていたろうことを思うと、観世座や巡礼芸能者の活動を偲ぶにゆかりのエリアと言えるかもしれません。

 

浅間神社の社殿が今のように立派になったのは、徳川家康江戸幕府を確立して以降ではありますけれど、静岡浅間神社は街道沿い、富士山本宮浅間大社も先に言ったように行者や商人で賑わう門前町でしたから、どちらも芸能集団が興行するにはふさわしいところです)

 

富士宮の羽衣伝説

羽衣のことを思い出す時、父から聞いた、故郷の伝承も思い出します。これは本当にあまり知られていないはず。


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資料が見つからないので、富士宮市関連のホームページから拝借したのですが、西富士宮と呼ばれる方面の南寄りに、ズバリ「羽衣」という地域があります。

ささやかな湧水があるのですけれど、そこに「衣掛松」があるのです。


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参照 富士宮市歩く博物館Pdf


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参照HP

https://hagoromoku.com/%e7%be%bd%e8%a1%a3%e5%8c%ba%e3%81%ae%e5%90%8d%e3%81%ae%e7%94%b1%e6%9d%a5/595/

 

ネットの資料では、土地柄というか「コノハナサクヤヒメが出産の際に…」とか、

このあたりは武田信玄が侵攻してきた今川領でもあり、それ関連の逸話が語られていますが(故郷には武田の戦跡の伝えや史跡が多く、布陣した「物見山」、戦乱により血に染まった「血流川(ちずがわ)」なんて川もある。実は私の家系も…閑話休題)、

 

当時の父の話や、おぼろげに見た資料の記憶では、確かここも天女の禊の話になっていたように思います。(かぐや姫が天に帰る前にみそぎしたところ…なんて話もあったような…)

伝承はその時々により、通りのよいものに変質したりしますので、富士山がコノハナサクヤヒメの山と定義されるようになって(私の記憶ではもともとそう限定していなかったはず)、聖女や女神といえばサクヤヒメになり、女神信仰の聖地とされていったのかもしれません。

 

今度、帰省できたら、もう一度改めて現地に行き、羽衣湧水を実見して、郷土資料館に調べに行きたいと思います。

 

まずは、灯台もと暗しだった三保の松原へ行ってみようかしら。