ささがねの ゆらら琴のね

~ いにしへの和歌招く響き ~

神代より…いにしへも…うつせみも…

私は琴を弾き、古代調の和歌を調べに乗せておろしていますが、

折に触れて、私自身の見解を書いていきたいと思っています。

 

かつて私は、古代国文学で学位をおさめて、長く宮廷文化と史書編纂の現場につとめていましたが、

傍ら、能楽を媒体に舞や楽を習い、一時は短歌同人に属して創作し、奈良に惹かれて機会あれば三輪山や龍田山・吉野山春日山、飛鳥の地を踏査してきました。

 

そんな中で、漠然と自分の内側に響いてくるものについて、正式な研究にはならないながら、自分なりに探究してきましたが、

琴を弾きながら旅するようになってから、改めて、文字文化以前・以後について再認識し、その境目となるのが、いわゆる仏教伝来と、大化の改新という、新時代のカルチャーとしての変革であって、

和歌についても、そこでまったく異なる意義への変革がおこなわれたと見られるようになりました。

 

そのことを認識したうえで、私は私なりの歌おろしを、現在おこなっています。

 

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さて、そこで表題とした「神代より…いにしへも…うつせみも…」について。

 

これは『萬葉集』、大和三山を読んだ有名な歌の中の文言です。

 

  香具山は 畝傍を惜しと 耳成と 相争ひき

  神代より かくにあるらし いにしへも しかにあれこそ

  うつせみも つまを争ふらしき

   (『萬葉集』巻一・13 反歌

       参照:笠間書院刊・森淳司編『訳文万葉集

           ※一部読みやすいように漢字表記を平仮名にしています)

 

後の天智天皇が、まだ中大兄皇子と称していた、斉明天皇の御代に読まれた歌。

 

廣く知られるように、中大兄皇子藤原鎌足らと共に、それまで政治を掌握していた蘇我氏を滅ぼす政変・乙巳の変を起こし、そこから大化の改新…朝廷や政治形態の大変革を始めます。

おそらくですが、天皇家というものを正確に確立するようになったのは、これ以降からで、特に皇親の血脈を舒明天皇と皇極・斉明女帝の所生(孝徳天皇のみ斉明の弟・皇后を中大兄の妹として血脈に繋がる)に限るよう定義したのではと思います。

そのため大化の改新以降、その他所生の王・女王について、記録に名前が出ても詳細不明の人が多く、重要な役職にもついていません。

乙巳の変以前に“古人大兄皇子”と呼ばれた舒明天皇を父とする皇子も、母が斉明ではなかったため、粛清され消えます。しかしその異母兄の娘(倭姫王)を皇后とすることで、中大兄皇子は舒明系を強固とし、大和政権の確立に向けて改革を進めていきます。

 

こうした、皇親による大和政権の確立と共に、

文字による記録というものが公的に表されるようになったのも、大化の改新の一環だったと思われ、実際に確立されたのは壬申の乱後の天武・持統天皇期からですが、漢字が公用文字として採用され、音を表記に当てはめるために試行錯誤がされ始めます。

(ちなみに、ヲシテ文字やカタカムナなどを日本古来の文字がそれ以前にあったとする見解もありますけれど、その起源や、国家的かつ普遍的な表記方法だったかは疑問の部分が多く、専門外ともなるため、それについてここでは触れません。)

 

律令を前提とした朝廷国家を作るにあたり、それまで口頭での声と記憶による語り文化だったものが、文字に記されて「形」として残るものとして作られるようになります。

それに伴い、たとえば「言霊」と呼ばれるように、声や言語を神聖な力あるものと認識してきた文化から、文字という形を力の象徴と認識する大陸文化が踏襲されるのですが、

これは、声や目力の強さで霊威をあらわし、生命力や意志力によって一族や村を統率する者を判断し王と定めてきたような、古代氏族における成り立ちに対し、

そのような王を王たらしめてきた威力のようなものがなくても、血統などの資質があれば天皇となり得る万世一系のしくみの誕生であって、身分ある人が姿を現さず実際に声を発せずとも、勅命という形で号令できる制度を作ったことになります。

 

 

記紀歌謡や萬葉集にみるような、5・7・5・7…調の和歌なども、このリズム調の歌の読みかたは、律令以前からあったと思いますが、今現在、私たちが知ることのできるものは、すべて文字であらわされているから残り得たわけで、

私は、それ以前の声のみで歌い合っていた時代のものと、文字で残されてからのものは、その歌われ方や意義は、ある意味、対極というほどに、まったく異なっているものと考えています。

文字以前は祭祀的な意義で歌が読まれ歌われていたと思われますが、大化の改新以降は、おそらく和歌は漢詩の影響により「文学・教養」の意味合いが濃くなり、大陸伝来の美的な音色を奏でる楽器や音楽と共に、朝廷文化として統一されるための、教科書的な役割として利用されたのではないかと思うのです。

ちなみに原初の楽器は、音階や美調な音色ではなく、響きや波長を発する祭具としての意味合いが強く、それは自然界に存在する岩や木々などあらゆるものが発する力を表すものの再現でした。

 

そして、文字を定め、声として発していた音をその文字にあてはめるにあたり、それまで自然界の響きと同様に多様であった発声の音を、次第に異なる近い音を共通音声に統一していき、最終的に現代でいう五十音となるに至ったろうと思われます。

この時点で、原初的な意味での「言霊」は自然淘汰されていき、おそらくは各部族での秘儀の中にのみ隠されて部分的に残るのみになり、やがてはその発声方法も肉体から失われて、後世においては再現不可能となったと、私は考えています。

 

今の時代に、なんやかや不満や自由を主張することはあっても、結局は政府の取り決めの上で人々が社会生活を営む権利を守られているのと同様、

大和朝廷の権威が拡がっていくにつれ、当時は今のように日本の島国がひとつの国家ではなく、それぞれの地方によりまったく異なる国として、それぞれの文化伝承があったでしょうから、まず、強制ではなく自然な形で、“大和朝廷の教養を身につけることで、自分たちにとってもなんらかよいことがある”と認識させる手段として、目新しく心地よいものを学ばせる手段として、文化教養が用いられた。

和歌を学ぶのは、おそらく、文字を学び大和の教養を学ぶために、利用されたものと思われます。

たとえば遣唐使船に乗せられた防人などは、ある種、強制的に徴兵されて命がけのことをさせられた…というのではなく、地方の若者が最先端の学問や技術を学ぶ貴重な場として、無事に帰れたら故郷に錦を飾り部族の代表になるほどの力となれるために、よいことと認識されていたのではないかと想像します。

東歌なども、素朴な方言調により古いものと思われてきましたが、近年の研究では比較的新しく読まれた歌ではないかと言われています。

 

類似歌が多いのも、歌の古さではなく、むしろ新しく学ばれた中で広く伝承された結果ではないかと思います。

 

漢字が当たり前のように誰でも使えたわけではない時代、普及させるために和歌を学ばせ、国というものを学ぶために『古事記』が整えられ、『日本書紀』で歴史が作られ、『風土記』などで各地のなりたちを集める。

いわゆる高天原系の神々の名や、その特徴などは、各地の伝承されるそれぞれの神々を統一し、自分たちの神が大和朝廷の祖と繋がると納得させることで、人心掌握させるのに利用されたように思います。

 

ことほど左様に、文字で記録を作り、決まりを表明することは、雑多な文化をひとつにまとめるのに便利だったのだろうと思われます。

 

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さて、その前提で、最初に掲げた、中大兄皇子大和三山歌ですが。

 

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歌の意味だけで見ると、天の香具山と耳成山が、畝傍山を得ようと争った、いわば三角関係の歌とされています。

香具山と耳成山、そして畝傍山が男か女か、つまりひとりの男を巡って女二人が争うのか、女を巡って男二人が争うのかは、諸説ありますけれど、

古くから言われているのは、宮廷歌人として名高い額田女王をめぐって、中大兄皇子大海人皇子が争い、それが壬申の乱の遠因であるとする妻争いを譬えているのだとする話です。

 

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夢のないことを言えば、この時代の結婚や恋愛感は現代とは異なるし、天皇とはいえ男性主体というわけでもないので、史実的には否定されていますけれど、編纂意図として、妻争いや人間関係を“におわせ”ていることは、あり得ると思われます。

初期万葉と呼ばれる、大化の改新から壬申の乱を経て天武持統朝くらいまでの歌を集めた巻一・二には、天智と天武の皇子皇女と宮廷人らの歌がほとんどですが、天智と天武の子供たちは、それぞれがまた恋争いらしいことに明け暮れたさまが“におわせ”られている歌が多いのです。そうした事実があったと明記されてはいませんが、そう連想されるよう編纂されています。まるで因果応報とでもいうように。

それゆえ、後世、現代に至るまで、この時代の争乱に、恋と歴史を絡めた物語が描き出されるわけです。

 

この時代における事件や争いや恋愛事件の発端の人物である中大兄(天智)が歌う三山歌ゆえに、

「神代の頃から神である山もこんなふうだったらしいし、昔からそうだったのだから、今の我々だって、愛人を争うのも道理だろうさ」

と、まぁ、俺を責めるなよ、みたいな歌に見えるかなと思うのですが。

 

ちょっと三角関係から離れて、この歌を見た時、

私には「神代の昔からこうだった、人の世も昔からそうだったのだから、今の時代でもそうなのだ」ということ、

神代より…いにしへも…うつせみも……ということが、改革者としての中大兄皇子が提唱した、コンセプトではないかと見てとれました。

一見、乱暴に見える改革の指針を示すために、日本となるべき島国ができる前の、創成の頃からの歴史というものから遡り、律令制定が成る今に繋がる史書を、文字を用いて成立させることで、大化の改新からの「改革」を正当化する手段としたのではないかと。

 

古くから何か大事を決める際、「前例があるかないか」、経験則を問うのは、今に至るまで行われていることで、特に新たな政権を樹立しようとする上で、今まであり得なかったことを納得させ決行するのは困難だったでしょう。

力づくではどうしようもない問題も多いはずだし、他民族を含めて大和朝廷に服属させるために必要だったのが、確固たる形で記された歴史書としての『古事記』『日本書紀』の編纂意図であり、たいていのことは奇想天外に見えても「神代まで遡れば、かつての記録に同じような事態が書かれている」ということで納得させていたのでは…

上代の歴史の中には、記紀のどこかに似通った話が出ていることがあり、実はそれは、本当に過去にあったことではなく、新たに想定されて書かれたことかもしれない、と思うことがあります。

 

天智~文武朝までは、まだ文字記録は出来上がっておらず、稗田阿礼のような生きた語り部頼みだったでしょうし、持統天皇と歌を読み合っている志斐という老女もそうと思われ、他にも語り部は何人もいたと思われますが、これら語り部のつとめそのものが、元来、朝廷のテープレコーダーの役割だったと想定されます。

 

上代に限らず、私たちが今学んでいる歴史書の多くも、おそらくこの、

「神代より…いにしへも…うつせみも…」

を主張するものだったろうと考えています。人の世は、事象の繰り返しです。

 

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さて和歌については、神の声を伝える響きを表した時代と、文字で記して後々までも鑑賞できる文学の時代とで、認識の相違があるのは確かですが、

額田女王などは、ちょうどその境目において重要な役割を持っていたことと想定されます。

 

そのあたりはまた、次の機会に書きたく思います。