ささがねの ゆらら琴のね

~ いにしへの和歌招く響き ~

思うこと、思い出すことなど


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ちょっと、浮世離れした妙なことを、しばらく書き続けるかもしれない。

このところ、幼かった事から十代頃までの、当時は当たり前だがなぜか人と合うところがなくて、今となれば不思議だったような......忘れていたことなどを、実感として思い出すことが多くなっているから。

思い出すままに、書き残しておく。

 

先に、今現在に至る、気づきのきっかけから書いておくと、

 

私は、今はやりのスピ系とは違う次元での、スピリチュアル感覚だと、二十歳で文系研究者の道へ入った時に気づいた。

その頃はまだ日本に欧米のニューエイジやスピリチュアル思想が入ってきたばかりの頃で、単に水晶が好きだというだけで変人扱いされ嘲笑されるような時代だった。パワーストーンの店などが増えるのはそのあとで、そもそも水晶や、勾玉のようなものすら、今のように簡単に手にできる時流ではなかったと思う。

 

古代国文学、特に和歌の研究室に進み、自身も短歌を読んで活動していた院生の頃。

もともと古代や和歌に惹かれたから、その分野に進んだのだけれど、私の考え方感じ方が、他の先輩や同期とは全く違う次元に基づいていることに、だんだんと気づいていって、やがて完全に異端となった。

史学としての古代史は、発掘や文献などによる実証を規範として考察されているけれど、古代国文学の分野は、資料が少ない分、一部では発想や哲学的思想で論証される部分も多く、研究者の世界でも、発想の仕方が様々だったが、私の場合は風土的なことから直観的に入ってくる感覚により、論を立て始める傾向があった。

憧れだった奈良大和に足しげく通い、どこという確証がないような、なんらか歌が読まれたとされる古地を訪ね歩いて、その土の匂いや風や木々を感じることで、直感的に浮かんだことから着想する。論にするにはかなり困難な方法だったけれど、先達からは興味深いと評された。

私自身が歌人だったから、その土地で短歌が浮かぶ発想と並行して、直感を得ていたのだろうけれど、その感性は、土着の土地の鼓動を感じるのに似ていることから、原始スピリチュアル、アニミズムに近いことに気づいたのである。

 

同じ頃、並行して、能楽の舞・謡・囃子の実技を習っており、神や地霊、幽霊、物語霊などの表現を体現していたことも、直感を得る上で大きな影響を受けていたと思う。

 

その後、ブームになった、主に欧米のスピリチュアルに、自分は近いような気はしていたけれど、実は欧米系の思想とはまったく和さない感覚も覚えていた。

大和古代国文学を研究する上での、日本の原始的思想や価値観と、似ているようでそれは異なる。主に「禁忌」とされる部分に、それは大きい。欧米スピでは推奨されることが、日本では「危険だから触れてはならぬ」領域のことが多い。それはあまりに深淵なため、魂の鍛錬なしに好奇心で触れるのが危険なため、古来禁忌とされてきたものだが、いわゆるスピ系のかたがたは、禁忌こそ真理に扉とばかりに、安易に触れてしまう。それは飢えて血を求める猛獣に抱きついていくようなもので、いっときは何ごともなくても、いずれ結界を崩していくように「ケガレ」が浸食し、取り返しがつかないことになる。

私はそれを、本能のどこかで感じている。それゆえ、世間一般のスピ系とは意識が合うことがない。

 

私自身になんらかの特殊能力があるでもなく、単なる直感に過ぎない。奇瑞を起こす力もない。だから私には何もいう資格も権利もないから黙っているが、

いわゆる霊媒体質、霊能力というのは、実は誰でも持っているもので、敏感なら簡単に憑依される。問題はそれを抜いて正常に戻すほうで、それをできる審神者はほぼ存在しないと言われている。また、現代人は全体的に、よほど優れた魂でも、合わせられる次元の高さは、古代の人々に比べようもないほど低い次元でしかない。

だから、ちょっと敏感な思い込みで、安易にスピ活動などするものではないのだが……

 

今は、それはともかくとしておく。

 

研究として、和歌文学の考察をするのはとても興味深かったけれど、答えとして実証するすべのないひらめき……万葉和歌の場合、類例のない表現や、当時は当たり前だったかもしれぬが後の時代には理解不能と思われる、ゆえに説明できるものが残されていない表現が多く、そこに私は興味を惹かれることが多かったが、話としては面白くても実証できなければ研究として成り立たない、その困難さゆえに、「研究者」を内にこめたまま、表向き、「創作」「小説」としてしか、表すことができないと、ある時期から諦めることにした。

信じる信じないは別として、興味や、琴線に響く人がいれば、それでいい。

フィクションやファンタジーとしての表現も、なかなかに困難だったけれど、おそらくそれしかないと、今も思っている。

 

そのことを表すことに、本能的に畏怖感があるため、ずっと筆が凍り続けていたのだけれど、今生の命があるうちに、人目に触れずとも、形として残しておかねばと、近年、とみに思うようになった。

 

私にできることは、これしかないらしいので。